pipiのひとやすみ

こころが疲れてしまったら、ひとやすみ、ひとやすみ。

60代の父が脳梗塞に…右麻痺と失語で在宅介護へ。①

こんばんは。pipiです。

 

前回の記事でもちょこっとお話した“父が脳梗塞になった”ことについて、書きたいと思います。

pipi-renai-kokoro.hatenadiary.com

 

以前から、書こうと思っていたのですが、やはり言葉に書き起こすことによって、様々な感情と向き合わなくてはならないので、

 

その自信がなくて、ちょっと逃げていました。

 

長くなりそうなので、何回かに分けて書こうと思います。

2022年、4月。60代の父が脳梗塞に。

4月上旬のこと。

父が“膿胸で入院した”という連絡が母から入りました。

 

父は数年間、単身赴任をしていたので一人暮らし。

国内で単身赴任をしていて、病で入院する前には、海外へ仕事へ行っていました。

 

帰国してから1週間の間は、コロナでないことを確認するために自宅隔離。

ようやく明日からは、通常通り仕事へ行く…という予定のタイミングで事件は起きました。

 

父は胸に息苦しさを感じ、なんとか病院へと辿り付き、診察を受けたのですが、

肺の中は膿だらけ。

 

免疫力が落ちていたところに、歯周病菌か何かが悪さをして、ここまで悪化してしまったようです。

 

父はもともと、お酒を良く飲む人で、食事よりもお酒で腹を満たすようなタイプでした。

 

また、海外での食事が口に合わず、栄養不足、飲酒の増加…という状態が5カ月くらい続いていたよう。

 

そんなこんなで、病院へ辿りついた時の状態はかなり悪かったようです。

 

とにかく、肺の膿をどうにか出さないといけなかったのですが、いくつも膿の袋があり、一箇所は心臓の近く。

 

手術じゃないと取り切れないだろうということで、入院した日から数えて5日目の日に呼吸器外科のある病院へ転院する日程が決まりました。

 

そして、翌日に転院を迎えた日の朝。

 

私は、転院を次の日に控えた日の夜、家族LINEでは、こんなやり取り。

 

私:“お父さんが良くなるまで神社仏閣巡るから、お守りは元気になったら、お父さんが自分で返しに行ってね!”

 

父:“分かりました。ありがとう。”

 

結局、それが最後のLINEでのやり取りになってしまいました。

 

翌日の朝、私は父との約束のとおり、願いが叶うと有名な神社へと出かける準備をしていました。

 

母から何度も着信。私はスマホを持たずに犬の散歩に出ていて、すぐに電話に出ることができませんでした。

 

帰ってきてLINEを開くと、

 

“お父さんが脳梗塞です。これから新幹線で病院へ向かいます。”と。

 

あまりに突然すぎました。どうやら夜中のうちに脳梗塞を起こしていたようです。

 

夜中でスタッフも少なく、見回りの時間も決まっているので、朝になってようやくスタッフが脳梗塞になったことに気付いたようです。

 

その日、私の主人は仕事。息子は保育園や幼稚園へはまだ通っていなかったので、とりあえず一緒に車に乗せて、車で2時間半ほどかけて病院へと向かいました。

 

正直、運転している間も気が気じゃありませんでした。

 

お父さん、死んじゃうのかな…と考えて、悲しくて、怖くて、涙が止まりませんでした。

 

なんとか、無事病院へ着き、先に病院へ着いて父と面会をした姉から、詳しい容体を聞きました。

 

目線は合わないし、もう私を認識してるかさえも分からない”と。

 

脳の指示を受け取る場所が損傷してるからリハビリもできないし、もしかしたら、数日の間に…ってことも考えられるかもしれない”と。

 

やはり、コロナの関係で子どもは病棟へは上がれないということで、私と姉と母、交代で面会へ行くことになりました。

 

母は、“2人で先に行ってきていいよ”と言って、私の息子を連れて近所のドラッグストアに歩いて行きました。

 

多分、脳梗塞になった父と直面する心の準備ができなかったんだと思います。

 

姉も母も医療従事者なので、今の状況がどのくらい危険な状態なのかを、よく知っていました。

 

この先どうなるのか、という予測ができるからこその苦しさもあったと思います。

 

そして、父との面会。父は険しい顔をして、天井を見つめていました。

 

“お父さん、会いに来たよ”と言っても、反応はありません。

 

ただただ、険しい顔で天井を見つめ、私と姉の声に反応する様子はありませんでした。

 

交代で母も面会を終え、合流しました。

 

脳が浮腫んでいる状態だから、2~3日は危険ということでした。

 

でも、そんな状況でもコロナ禍。急変時のみしか面会許されないという状況でした。

 

ということは、次に会えるのは、

 

父が転院や退院で外へ出る時、もしくは、父の命に危機が迫った時、

 

という、2つ。

 

子どももいるので、私はとりあえず一旦帰ることにしました。

 

母はひとりでいたくないということで、3人の中で一番病院から近い場所に住んでいる姉の家へ泊ることに。

 

そこから、父の命の危機と隣り合わせの3日間。スマホをそばに置き、夜寝る時も手に持って、過ごしました。

 

寝る時といっても、いつものように眠ることはできませんでした。

 

うとうとしても一時間ごとに起き、涙も出てくるし、心が苦しい、

 

父が回復することを願いながらも、もし父が死んでしまったら…という考えも頭をよぎる。

 

“生きた心地がしない”って言うのは、こういうことなんだな…と実感しました。

 

時間の感覚とか、日付の感覚とかが無くなって、ただ時間を消化する。

 

一秒先に何かがあるかもしれないと常に怯える。

 

今こうやって思い返しても、すごくすごく苦しい日々でした。

 

結論からいうと、父はなんとか持ちこたえ、半年以上たった今も生きています。

 

ただ、発症から3日を過ぎても、まだいろいろを命と向き合う出来事がたくさんあったし、バタバタの日々は続いたので、それはまた次の機会に書いていこうと思います。

 

こうやって言葉にすることで、やはり心は重たくなりました。

 

向き合わないようにしているけど、向き合わなきゃいけないことがあるんです。

 

近い将来に、父との別れが来るかもしれない…ということ。

 

父はほぼ寝たきり、もともとやせ型で体力がない、麻痺により嚥下機能(物を飲み込む機能)が低下している

 

ということから考えても、冬に誤嚥性肺炎(食べ物が上手く飲み込めず、気管に食べ物や唾液が最近と共に入ってしまう)のリスクは高まります。

 

そういうこともあり、現実的に別れを受け入れる準備をしなくてはいけないのかな…とは思うんですが、今の私にはできていません。

 

というか、考えないように生きています。

 

ちょっと想像してみるだけで、胸が苦しくなってきます。

 

なので、今は自分の心を保つために、ちょっと逃げています。

 

だからってわけではないですけど、

 

みなさんも家族との時間、パートナーとの時間、友人との時間、ペットとの時間など、大切に過ごしていただけたらと思います。

 

伝えたいことは、伝えられるうちに伝えてくださいね。

 

私、父が危険な状態だったときに、“60代 脳梗塞 予後”ってたくさん調べてたんですよ。

 

だから、同じような境遇の人との情報共有に少しでも役立てば…と思って書きました。

 

今、数か月前の私のように、毎日泣いて過ごしている人もいるかもしれません。

 

泣いていいんですよ。私もたくさん泣きました。

 

だからこそ、こうやって自分の気持ちとか状況を振り返れるようになりました。

 

正直、まだ怖いです。でも、なんとかやってます。

 

だから、つらくなったら、またここに記事を読みに来てください。

 

一緒にちょっとひとやすみしましょう。